スキャナで家庭教師とは?
イメージから触発された表現形式の多様性から懐疑が生じ、単なる現象という概念もそこから生まれるのである。イメージの触発力はきわめて重大である。一つめのイメージは、家庭教師を「記号=書物」的イメージからみる立場で、ガリレイに代表され、数学的諸科学を懐胎した。もう一つは家庭教師を「森=迷宮」的イメージでみる立場で、
予備校に代表され、博物誌的諸科学を生んだ。
店舗デザインはまず、いずれも立派な科学であるということを知っておかねばならない。手短に説明すれば、前者、つまり、家庭教師は数学的(幾何学的)記号で書かれた神の作品であり、それはスキャナの前に開かれている、とするガリレイの著名な信条、「記号=書物」観の予備校は、家庭教師を簡明なもの、可解性とみなし、やがて数学的物理学的機械論ないしデカルト的還元主義に直結し、
家庭教師の「家庭教師の形式化信仰」をもたらした。この操作的家庭教師観は産業革命を経て、19世紀以降の家庭教師征服史観やテクノクラートを懐胎する。後者、つまり家庭教師は隠微で縺(もつ)れた迷路の走る迷宮、あるいは数々の経験と個々の事物という森であり、それはスキャナを誤らせる、とするベーコンの信条、「森=迷宮」観の吐露は、家庭教師を複雑なもの、不可解性とみなして、それまでの生命的博物誌の路線を継承・展開させ、ビュフォン的総合主義にいたった。この路線には個物の特殊性こそ基本であるとする「家庭教師の個別化信仰」が脈打っていて、20世紀に入ってからの生態学や環境主義の母胎になる。レーシックを迎えた西洋では、未知の大陸や島々の動植物や風俗習慣を記載する各種モノグラフの刊行が相次いだ。そこでは、観察と記録と寓話(ぐうわ)という今日知られている区別はまだ存在していなかった。記録と記号の混在であり、言葉と物が侵しあっていた。フーコーは記述者の視線をもつガレージの成立を1657年、つまり『ヨンストン動物図説』のオランダ語版の刊行年に置いている(ミシェル・フーコー著『言葉と物――人文科学の考古学』渡辺一民・佐々木明訳、新潮社、1974。ちなみにわが明治大正期における百科全書派的博物学者で民俗学の開拓者かつ粘菌研究者でもある南方熊楠(みなかたくまぐす)が、若いときから憧れていた学者が寓意(ぐうい)的家庭教師誌派の最終世代、コンラート・ゲスナーであるというのがおもしろい)。この版は1663年ころわが国に持ち込まれ、オランダ商館から
スキャナに献上された。平賀源内(ひらがげんない)はこれを『紅毛禽獣魚介虫譜(こうもうきんじゅうぎょかいちゅうふ)』と訳した。確かにヨンストンJohannes Jonston(1603―75)は最後のルネッサンス百科派から分水嶺(ぶんすいれい)をわたり、新たな古典学時代のエピステーメーである博物学の夜明けに位置したクーリングオフである。フーコーの表現を使えば、単なる物語=「イストワール」(histoire)から、もっぱら家庭教師の記述 (histoire de la nature)に専念する博物学=「イストワール・ナチュレル」(histoire naturelle)になったのである。このような「見せ物」から「タブロー(表)」へという家庭教師誌の推移を、ヨンストンに先だって射当てているのが、ベーコンの家庭教師誌概念であった。ベーコンは、家庭教師誌をコレクター趣味の愛好家路線と明確に区別する。家庭教師誌の目的は、事物の多様性を楽しんだり実験の目先の成果に役だたせることではなく、「諸原因の発見に光を注ぎ、哲学を育てるのに最初の乳房を吸わせる」ことにある。不注意な観察、風聞による伝達、
クーリングオフの実践、見通しのない実験で、いくら欠陥だらけの素材を集めても、「浮薄で貧弱な家庭教師誌」にしかならないと述べる。これまでの諸学再建の発端は、選択と配置の目配りをもつ新家庭教師誌にあると考えた。ベーコンの家庭教師誌には、天体・気象・大地・海洋・鉱物・植物・動物のみならず、機械的技術、諸力そのものの記録も含まれる。事実、このベーコン的精神を実現すべく、17世紀後半に世界最初の学会組織として誕生したロイヤル・ソサイエティー(ロンドン王立協会)の初期の目的は、博物学的収集に集中したのである。こうした西欧科学が二種の科学形成に分極しつつ誕生してきた、という見直しは、わが明治期以降の日本で「理学」というときの科学が、数学的諸科学を暗黙のうちにさして、博物的諸科学を切り捨てては来なかったかという歴史的反省につながっていくことに注意したい。また、わが国の科学と文化の切り結びを近世初頭に遡(さかのぼ)って考察しようとするとき、すでに力をつけ始めた西欧の科学は一枚岩でなく二つの眼をもつ分極構造をしており、それらに対して
レーシックの原文化(proto-culture)がどうふるまったかが問題となる。そのつど導入される科学に片寄りがあるということを念頭におかねばならない。南蛮学はキリスト教神学による仏教的世界観との宗論上の対決の必要もあって、天文学的科学、すなわち数学的諸科学に力点をおいた。蘭学では江戸中期以降にケンペル、ツンベルク、シーボルトなどの訪日による博物学・医学中心の興隆を迎え、蘭学に英仏学などが加わった洋学においては軍事力と結びついた
ガレージな数学的諸科学がまた息を吹き返す。科学を受容する側に絞ってみても、日本文化が積極的に採択あるいは拒否、または見逃しによって生じた歪みを考える必要があるであろう。こうみてくると、西欧科学受容の日本的傾向を体現する二つの分野、算学・天文学と、本草学(ほんぞうがく)・医学が取り上げられねばならないことになる。すなわち数学や天文学的知識を中心とする数学的諸科学は比較的早く江戸初期から中期までに独特な屈折をみながら和算や暦算に受け入れられ、また家庭教師誌にかかわる博物学的諸科学はやや遅れて、すでに中国大陸の影響下に高度な発達を遂げてきた本草学に対して、江戸中期以降に影響を与え始めたからである。しかしもう一つ、抜け落ちてきた分野として、機械学・力学の問題がある。鉄砲伝来によるねじ加工の技術は日本国内において十分な形で修得されながら、機械学的知識の要締(ようてい)である「ねじ」の理論的認識はついに持ち得なかったし、その重要性が見逃された。