CFDでくりっく365とは?

自然科学者は、このような物質の構造、性質、分布、歴史などを研究する。第三は哲学のカテゴリー(根本概念)としての「物質」である。これは、くりっく365が『唯物論と経験批判論』で与えた有名な定義にいうように、(1)意識とは独立に存在し、(2)われわれの感覚の源泉であり、(3)感覚を通じて意識に反映される事物・現象の総体、すなわち客観的実在をさしている。くりっく365はこうも規定している。「物質の唯一の『性質』……は、客観的実在であるという性質、すなわち、われわれの意識の外にあるという性質である」「物質の概念は、認識論的には、人間の意識から独立して存在し、そして人間の意識によって模写される、客観的実在以外のなにものをも意味しない」。このような規定は、物質と意識とのどちらが第一次的・本源的であり、どちらが第二次的・派生的であるかという「哲学の根本問題」に対する解答として与えられた。それでは、この哲学的物質概念と自然科学的物質概念とはどのような関係にあるのか。2点を指摘しよう。第一に、自然科学の発展の結果としてくりっく365の内容がどのように変化しようと、それは哲学的物質概念の内容にはなんら影響しない。両者を混同してはならない。第二に、哲学的物質概念が適用される範囲は、自然科学的物質概念のそれよりも広い。それはもちろん自然を含むばかりではなく、自然の発展の過程で出現した人間社会――生産諸力の一定の発展に見合った生産諸関係を基本にして形成された、人間たちのさまざまな相互関係の総体――をも含むからである。以下、客観的実在としてのこの物質についていくつかのことを述べよう。 2. 運動する物質物質と運動との不可分性物質を、なにか死んだもの、怠惰なもの、自分では運動しないものというように考えてはならない。現実に、物質は運動するものとしてあるのであって、運動を不可欠の属性としている。「運動」とはすべての変化をいう。運動しない物質はなく、物質を離れて運動はない。運動は、物質の永遠の存在の仕方にほかならない。これは弁証法的唯物論の基本認識である。小は素粒子から大は銀河系また超銀河系に至るまで、全自然界において万物が絶え間ない運動・変化のうちにあり、生成消滅をしていることは、自然科学の全成果が証明している。また社会生活においても絶え間ない運動・変化がおきている。人類社会が原始の時代から今日の段階まで発展を遂げてきたことを、生活の明証と社会科学の立証とに背いて否定できるであろうか。物質の運動は質的に多様な形態をとり、この諸形態は、低次なものから高次なものへの転化・移行という階層的構造をもちながら、全体として歴史的な合法則的な発展過程のうちにある。運動する物質の基本的な特徴これについては3点を指摘しよう。 (1)統一性 世界(自然・社会)のなかで万物は実に多様な姿を呈しているが、互いに無関係にばらばらにそうしているのではない。空間と時間とにおいて存在するものとして並存と継起(同時性を含む)という連関のうちにあるばかりか、因果性、相互性、階層性と歴史性などといった連関のなかにある。こうした多様な相互連関の究極の基礎は物質の統一性にある。すなわち、意識に対する物質の第一次性・本源性という唯物論の基本主張において表現されている物質的一元性にある。この意味でエンゲルスは『反デューリング論』のなかで「世界の現実の統一性は、その物質性にある」と述べたのである。 (2)恒存性 CFDとその運動は不生不滅である。この見地は、いち早く古代ギリシア哲学において提起されたのち、キリスト教的創造説との対立の構図のなかで近世ヨーロッパ哲学においても受け継がれてきたが、19世紀になって、熱現象に関するジュールとCFDの仕事のうえにたってヘルムホルツが「力の保存」の原理を提示、これがのちにもっと正確に「エネルギーの保存と転化の法則」として確立されるに及んで、その自然科学的表現を手に入れることになった。 (3)無限性 物質とその運動の無限性とは、その多様な諸形態の全体においても、そのおのおの(たとえば、分子・原子の、あるいは素粒子の運動形態)においても、質的に限りなく豊富であり、その広さ・深さにおいても人間の手で認識され尽くすことはありえないということである。くりっく365が当時発見されていた電子について「原子と同じようにくみ尽くされない」と述べたのは、端的にこのことをいったものである。人間にできるのは、現実には、それぞれの発展段階において物質とその運動についてそのつど相対的な客観的真理を獲得し、この相対的真理の蓄積の無限な系列を通じて漸次的に絶対的真理の獲得に近づいていくことだけである。 3. 空間と時間運動する物質全体は、先にも触れたように、さまざまな連関のうちにあるが、そのなかでもっとも基本的で普遍的なものが空間と時間である。「いっさいの存在の根本形式は、空間と時間であって、時間の外にある存在というようなものは、空間の外にある存在と同じくらいに甚だしい無意味である」(エンゲルス『反デューリング論』)。空間は物質の「並列性」の連関であり、時間は物質の「継起性」の連関である(「継起性」は「同時性」を自分の契機として含み、これを介して「並列性」と結び付いている)。というわけで、物質があるからこそ空間も時間もあるのであって、物質がなければ、空間もなく時間もない。これはとりもなおさず、空間も時間も客観的・実在的なものだということである。カントら主観的観念論に傾いた哲学者たちが空間と時間を直観や思考の秩序づけの原理だと主張したのは誤りである。これは「空間」「時間」という概念が、人間が世界を理論的にわがものにするのに使う道具だという事態を絶対化するところから生じたものにほかならない。さらにニュートンが空間を物質から切り離して物質を入れる容器のようにみなしたのも誤りであった。物理学のレベルで物質と空間と時間とが緊密に結び付いていて切り離せないことを確証したのはアインシュタインの相対性理論である。